倫理観

ただのアイドルオタクの独り言です。

『できることならスティードで』超私的感想Part1

 

 

エッセイとは、人間の価値観や思考を最も顕著に視覚化できる手段だと思う。

自身の経験したことや感じたことを赤裸々に語る、まさに自己開示の結晶こそがエッセイであり、その文字の羅列は読者に著者の心情をじわじわと、如実に伝えてくる。

 

 

2020年3月6日、加藤シゲアキの初のエッセイ集『できることならスティードで』が発売された。

 

できることならスティードで

できることならスティードで

 

 

これは著者が文芸誌「小説トリッパ―」2016年春号~同誌2019年冬号まで連載していたエッセイに掌編小説三篇を加えて書籍化したもので、著者初となるエッセイ集ということもあり、ファンの間では発売を待ちわびる声が多数挙がっていた。

 

かくいう私も、そうしたファンの一人だった。

私はNEWSもといそのメンバーである加藤シゲアキのファンであり、アイドル業と並行して作家業を営む彼が創りだす作品群に毎度心踊らされている身である。

 

彼は人々に夢を与えるアイドルという身でありながら、私たち一般人にどこか不思議な親しみやすさを感じさせる。

自身の抱える悩みや葛藤をファンにあけすけに語り、またファンの語る悩みに「分かるよ」と共感する。日常的に数多の女性たちから歓声を浴びる特殊な立場でありながら、私たちのいちばん身近にいてくれているような感覚を覚えさせる。彼は「あちら側」の人間であるはずなのに、妄信的に好きな何かを追うことで生かされている「こちら側」の気持ちを理解してくれているような、そんな感覚。

彼は少し、変わっているアイドルだと思う。

 

そんな彼が自身の経験を基にその想いを語るエッセイは、連載時読んでいても非常に楽しいものだった。

彼の脳内を直接覗いている、と言うのが一番正しいかもしれない。

彼が経験し、感じ、創造したことの共有を許されたようで、読めば読むほど彼のことを知り、理解することができるようで、ページを繰る度に私の心は高鳴った。

 

本作は、今を生きるひとりの人間・加藤シゲアキの思考回路や価値観が非常に濃く現れているものだった。そして、彼が曝け出す彼自身が、まるで私自身に対して「お前はどう考えるんだ」と語り掛けてくるような作品でもあった。

 

 

 

Trip1 大阪

本作は「旅」をテーマとしたエッセイ集であり、作中には著者の様々な旅の経験が記される。

この章では、著者が共演者の舞台を観劇するために大阪まで足を運んだ経験が描かれる。オタク風に言えば「遠征」である。自担が遠征に行った時の様子を事細かに知ることができる加藤担は、やっぱりアイドルファンの中でもちょっと特殊なのではないだろうか、と思う。

 

娼婦ならぬ娼夫が主人公のエロティックなテーマの舞台を鑑賞した後に焼き肉屋へと訪れた著者が、「ホルモンの持つ特有のいやらしさ」に心奪われる官能的な描写が非常に独特で面白いものだったので、是非実際に手にとって読んでみて欲しい(というか、焼き肉を食べる時にこんなことを考えているのかと思うと、やっぱりこの人はちょっと変わっているなと思った)。

著者の他作品を読んだ際にも感じたが、彼は食べ物を官能的に描くのが上手い。少なくとも、私はミノやシマチョウを「禁忌的」だと表現することはしないだろう。エロ・グロ・ナンセンスな文章が好きな私にとって、この焼き肉の描写は非常に刺さるものだった。食は性と密接な関係にある、という言説を聞いたことがあるような気もする。

 

大阪から東京へと帰る新幹線内で、著者は二人の芸姑とその師範とおぼしき女性と遭遇する。彼女らの可憐かつ色っぽい魅力を引き出す赤と白のコントラストが美しい化粧を目の当たりにした著者は、数日後自身もテレビ番組で芸姑に扮することとなるのだが、そこで著者は「化粧」の漢字のつくりや起源を思い起こす。

著者は仕事柄、化粧を自身に施す機会が同年代の男性に比べ圧倒的に多い。著者は「芸能の仕事を始めた小学六年生の頃からメイクを好んでお願いしていた」という。

メイクをしてみるともっと内面的な、自分が自分でないものになれる、憑依のような、確かに霊的な感覚があった。

その感覚は今でも変わらない。もともと引っ込み思案の自分が堂々と人前に立てるのも、少なからずメイクのおかげだ。化粧はあなどれないほど内面に変化をもたらす。日本人がハロウィンではしゃぐのはそういった感覚に由来するのではないだろうか。〔24頁〕

そして、著者は芸姑姿に扮した自身を見て、ふとミルクレープを思い浮かべる。幾重にも重なった層の下には皮膚があり、筋膜があり、筋肉があり、そして内臓(ホルモン)がある。化粧で自身を覆うことで、自分ではない誰かになったり、自分をより自分らしく見せたりする。そして、そうした表層の下に日々積み重ねた土台があってこそ、上質な上層がつくり出され、その上に重ねた化粧が人の美しさを際立たせる役割を担ってくる。

 

自分自身を外面から内側へとめくっていく作業は痛く苦しいものだと、著者は語っている。そして、その作業は書く行為そのものであるとも。

「自分の見せたくない部分を見つけて刺激して、お客様に提供する」。

私が今手にしている本は、彼のそうした痛く苦しい作業の末に生まれた結晶である。

 

ここ数年彼を応援してきて、彼は恐らくややプライドが高いひとなのではないか、と感じている。

自分の考え方や創り出すものにそこそこ自信があって、けれど持ち前の自意識の高さや過去の挫折経験などからか、「こんなもので本当に喜んでくれるのだろうか」「僕のような者が……」「自分みたいな人間が……」等のネガティブな思考を零すこともある。

そんな彼が、店員に「サラミトッピングするんだ」と思われたくなくてピザのデリバリーを注文することができないような彼が、プライベートで「メンバーカラーを意識している」と思われたくなくて緑色の私物を持つことを避けるような彼が、ファンと遭遇した時に「これ買ってるんだ」と思われたくなくて咄嗟に買い物かごを隠してしまうような彼が、

自分の内面をさらけ出し、本当は「隠しておきたいこと」や「知られたくないこと」を文章を通して私たちファンに赤裸々に伝えてくれる。

 

彼は自意識が高く、少々面倒で人間くさい性格をしている(褒めてます)一方で、一度ステージに上がるとキラキラとした笑顔を浮かべながら私たちファンに夢のようなパフォーマンスを届ける。

コンサートの時の、普段は付けないピアスを二つ左耳に光らせ、投げキッスや「愛してる」といった愛の言葉を囁く等、普段なら絶対にとらないような言動をとる“アイドルモード”の彼は、本人の言う通り化粧によって変身を遂げた彼の姿でもあるのだろう。

芸能人には、所謂表の顔と裏の顔がある人もそこそこいるらしい。

しかし、彼はあくまで素の自分を曝け出すことで、自身のファンと繋がろうとしているのだという。

 

彼の持つ様々な顔は全て素の「加藤シゲアキ」であり、私はそんな人見知りで、小難しくて、オタク気質で、ちょっと面倒な性格で、ステージ上ではキラキラとした笑顔を振りまく、「アイドルらしいのにアイドルらしくない」彼のことが好きだ。

本エッセイを読んで改めて、そんな彼の内面を覗くことを許されていることを嬉しく思った。

そして、彼が開いてくれる彼自身に対して、私も相応の覚悟を持って真摯に、正面から、時には自分自身を省みながら、真っ直ぐに向き合っていきたいと思わされた。

 

 

彼のような人でさえ化粧に励まされることがあるということを知ったことで、私自身も何だか毎日のメイクをこれからより楽しめる気がする。

 

 

Trip3 肉体

「肉体」と「旅」を結び付けた本章には、自分に足りないところをなんとか補おうともがく著者の性格が強く表れていたように思う。

 

世の中には天才タイプと秀才タイプがいるというが、彼は恐らく後者のほうだろうし、彼のファンの多くがそう答えるのではないだろうか。

そもそも僕自身は身体的コンプレックスが強かった。人より身体能力が秀でたことはなく、技術も低いという自覚がある。しかし、だからこそ頭を使って身体づくりに励まなければ、歌やダンス、芝居などのあらゆる芸事に対応できる肉体に近づくことはできない。〔48頁〕

彼は自分自身に「何が足りないのか」ということを理解していて、その上で努力で差を埋めるためにとことん励もうとする。

 

例えば、運動能力。彼はよくバラエティ番組でその運動神経の悪さをいじられているし、実際本当に運動が苦手なんだろうな、とも思う。NEWSのメンバーが「ボール取るだけで(運動神経が悪いことが)バレる人っているよね」とラジオで言っていたのを聞いたことがあるが、彼はまさしくその類だろう。

事実バレーボールをすればアタックを打とうとする手は空をかくわ、レシーブは腰が引けている上に腕を上に振っているだけだわ、挙げ句の果てにはボールが顔面に激突するわで、一応経験者である私から言わせてもらうと正直全くなっていない。他にもバスケットボールに思いきり頭をぶつけたり、圧倒的スピードの遅さのクロールを披露したりと、ジャニーズらしからぬその運動神経のなさは「美貌と文才の代わりに神から運動神経を奪われた男」と称されている。

 

しかし、引用部分で本人も述べているように、仕事柄運動能力が求められる場面は他の職業と比べて多いだろう。「僕運動苦手なんで」と言ってダンスやアクションシーンを回避することなどできない。

実際、私が応援するアイドルたちも皆陰で血の滲むような努力をした上で、笑顔でステージの上に立っているのだろう。

 

その中でも、彼は未知のモノに対しての飽くなき探求心や好奇心、そしてそれを自身のモノにしようとする貪欲さが一際強いと思う。それは彼の一種の才能であると思うし、実際に得た知識を行動に移し取り込もうとする行動力は随一だということが、本著を読むだけでもよく分かるはずだ。

 

自分に足りない部分に正面から向き合い、それを補うために自身ができることを模索し、実行する。その積み重ねによって現在の彼の多彩な才能が花開いたのだと思うし、私は彼のそんな徹底的に努力できるところが好きだ。

本章で書かれている「自然」「運動」「円環」の三位一体という結論にも、そうした彼の特性がなければ辿り着かなかっただろうし、きっといつか彼が「肉体の旅」を続けていく中で「円環」を体得できる日も来るのだろう。私はその日が、今からとても待ち遠しい。

 

 

Trip4 岡山

このエッセイは、日本文藝家協会選「ベスト・エッセイ2018」に収録された作品でもある。

内容としては著者の祖父が亡くなった時のことを綴っているのだが、この経験が私自身の祖父が亡くなった時のそれと非常に似通っていたことに、初めて読んだときには驚いた。

例えば、亡くなったのは父方の祖父であるということ。生前の祖父は気性の荒い人で、孫でありながらも軽い苦手意識を持っていたこと。そんな祖父が別人のように弱ってしまった姿を見て衝撃を受けたこと。そんな祖父が自身にかけた言葉。そして祖父と祖母が寄り添う姿を見て、うっかり目元を拭ってしまったこと、等々。

 

ここで、少し私自身のことを綴らせてもらう。

私も著者と同じく、感情的で周囲の人々からやや敬遠されがちな祖父のことが少しだけ苦手だった。地元ではそこそこ有名な頑固爺さんだったらしく、孫である私には優しかったものの、自分の意志が絶対だと思っている祖父がほんの少しだけ疎ましかった。

そんな祖父だったから、当時高校生だった私は「一生死なないんじゃないか」と根拠もなく思っていたのだが、生前の血気盛んな様子などなかったかのように、本当に呆気なく死んでしまった。肝臓か何かの病気だったらしいが、詳しいことはあまり知らない。文化祭の準備をしていて訃報の連絡が来た時の第一声は、「え、まじ?」だった。

 

祖父と最期にまともに喋った時のことを、私は鮮明に覚えている。

祖父は病室のベッドに座っていて、「よう来たなあ」と笑顔で言った。ぬるくなった大量のシュークリームを私と弟に無理やり差し出す姿を見て、「なんや、全然いけそうやん」と思った。

しかし、その一週間くらい後に再度お見舞いに行くと、祖父は別人のように横たわって看護師にオムツを交換してもらっていた。集まっていた親戚一同に「孫が来たよ」と言われても何も言葉を発することができないその姿を見て、私は「人はこんなに短期間で弱るものなのか」と物凄い衝撃を受けた。

弱々しい手を握ると温かい手が軽く、本当に軽く私の手を握り返した。疎ましく思っていたはずの祖父の「もうわしは駄目じゃ」「こんな日はもう二度と来んやろなあ」という息のような言葉に、うっかり鼻の奥がツンとする感覚がしたが、家族の前だったのでできるだけ祖父の顔を見ないようにして耐えた。弟は私がその手を離した後も、帰る時までずっと祖父の手を握っていた。

 

死化粧を施した祖父に触れて「死人ってこんなに冷たいんや」とはしゃいだり、お坊さんの唱える独特すぎるお経に笑いを必死に堪えたりと、正直祖父を失った遺族らしからぬテンションで通夜を終えた翌日のことだった。

葬儀はつつがなく進み、最期に棺に参列者でお花を入れる時となった。私は「孫らしいこと全然できなくてごめんね」と書いた手紙とお花一輪を、祖父の顔の横あたりに添えた。活動的だった祖父の葬儀にはたくさんの参列者が来ており、祖父はたちまち色とりどりの花まみれとなっていった。

 

最後に祖母が祖父に近寄り、お花をそっと入れた。葬式屋が「もう蓋閉めてもいいですか?」と問いかけた時、祖母はしばらく無言で祖父の顔をじっと見て、それから数秒後に頷いた。その祖母の後ろ姿が何だかすごく小さく見えて、私はそこで葬儀が始まってから(もっと言えば祖父が亡くなってから)初めて泣きそうになった。

祖母は祖父とお見合い結婚をしてから、自己中心的な祖父の言うことを聞いていつも忙しなく動き回っているイメージが強かった。祖父はあれをやれ、これをやれと祖母に命令し、祖母はそれに文句を言うことなく従う。何だか時代錯誤なそれが私は気に入らなくて、一度祖父に「自分でやれ」と反抗した結果めちゃくちゃに怒られたことがある。

ともあれ、そんな祖父と祖母だったからこそ、祖父との別れを惜しむような祖母のどこか寂しそうな背中に、私は自分が今まで見ることができなかった、長年連れ添った夫婦の絆のようなものを感じてしまった。

 

認知症となり、孫である自身のことは忘れてしまっても祖母のことは覚えている祖父の姿を見て、著者は「生涯を共にした伴侶だけは認識できること」にうっかり感動する。

棺に入った祖父は頬に綿を詰め、死化粧をしていた。今まで見たことないほど穏やかで安らかな表情だった。怒りっぽかった祖父はもうどこにもいなかった。その写真を見たとき、好きではなかったはずの祖父のことが不思議と愛おしくなり、また虚しくなった。〔64頁〕

 

私は、棺の中で人が変わったかのように横たわる祖父の顔が忘れられない。そして、「もっと孫らしく孝行してあげればよかったな」と後悔したことも覚えている。今だってそう感じている。疎ましく思っていたはずの祖父を失って初めて、私は祖父のことがそれなりに好きだったのかもしれない、と思った。

この話を読んで、私は祖父が亡くなった時の記憶を、その時に見た祖母の小さな背中を思い起こした。死人は決して生き返らない。けれど、あの背中を見た時の気持ちを思い出させてくれたこのエッセイに、私は何となく感謝をしたくなった。

 

彼の文章は、とことん「素直」に綴られている。感じたことをそのままに、読者に説教をするわけでもなく、飾らない言葉でありのままの自分を曝け出した文章、と言う言葉がぴったりだと私は思う。

そんな文章だからこそ、読み手の記憶の底から過去の出来事を掘り起こすことができるのだろう。

 

 

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彼の作品を読んでいると、否が応でも「彼も血の通った一人の人間なんだ」ということを思い知らされる。

彼があまりにも恥ずかし気もなくその内面を晒すので、読み手であり彼のことを(ファンではない人と比べると)よく知っている私は、彼の心を想って苦しくなる。ページを繰る手が止まりそうになることもあるし、一度読んだ段落をもう一度はじめから読み直して、そしてやっぱり胸が締め付けられるような気分になることもある。

 

作品の中で語られる彼の仕事の多くを、私はリアルタイムで追ってきた。彼が提供する“アイドル”の彼に、私たちファンは歓喜し酔いしれる。けれど、そんな表の面の裏側には確実に色んな葛藤や挫折・過去の歩みが存在していて、そうした「アイドルではない彼」のことを活字を通して知ることで、彼が「同じ時代を生きている人間」だということを改めて強く実感させられた。

彼の腕を切ると血が流れるということ、彼にも「ベッドの中で泣きそうになって、眠れなくなって朝が来そうな」日があること、そんな当たり前のことを伝えてくるのが本エッセイであったように思う。

 

彼のこころの内を、彼自身の言葉でもって享受することができる私は幸せなのだろうと思うと同時に、本来知り得なかった彼自身の心の揺れまで知ることができてしまうということが、苦しいと感じる時もある。

けれど、彼が自分自身をこちら側に向かって開いてくれる限り、私は彼のなかを覗き続けたいと、そう思うのだ。

 

 

~『できることならスティードで』超私的感想Part2へつづく~